アマンダおばさんの
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7月22日(月

父との思い出

 7月5日は15年前に亡くなった父の命日だった。そこで、父との思い出を少し話してみたい。
娘時代私は父の事を思いやることはほとんどなく、忌み嫌って20数年の年月を過ごした。

 父と母は典型的な不和の夫婦だった。夕食の座卓がひっくり返ったり、母の顔めがけて味噌汁のお椀が飛ぶのは日常茶飯、夜中突然聞こえるけたたましい物音や、母の嗚咽に妹と二人、布団をかぶり息を殺して泣いた日が幾度もあった。翌朝頭や顔にあざを作っては寝込む母の姿を見るにつけ、私は父を憎み嫌うようになっていった。
 父は母に厳しいだけではなく、長女である私にも厳格で、自転車乗りの練習を忘れたと言ってはゲンコが飛び、算数の問題がよく分からないといっては夏休み帳をビリビリに破られたものだった。優しいお父さんを持った友達を見ては、「わたしもあんなお父さんがよかったな~」と思った。

 中学・高校時代にはなるべく父と顔を合わすまいと、避けて生活し、そして大学時代、そりが合わない父との葛藤の末、横殴りに殴られた腹いせに、私は、「こんな家(いえ)出ていくわ!」と、バッグ一つ抱えて家を出てしまったのだった。行先は当時こちらの国立大学の学生だった今の主人のアパートだった。 が、あいにく留守。いつ帰るとも知れず、12月の暮れも押し迫った裸電球の暗い廊下の隅で、寒さに震えながらひたすら(今の)主人の帰りを待っていた。長い時間立っていたせいで、意識がもうろうとしてきた頃、人影がこちらに近づいて来た。暗がりでそれが誰なのかよく分からなかった。 主人かな?とおもいきや近づいてきた人物は、何と父だったのだった! 私は恐ろしさで一杯になった。また殴られるかと思った。
 しかし、予想に反して父は、「さあ、帰ろう」と、しわがれた声で手を差し伸べてくれたのだ。その手は大きく、暖かく、こうして父と手をつなぐのは何年ぶりの事だろうかと思いながら、小さい子供でも引くように手を携えてアパートの階段を下りる父の背が、なぜか小さく小さく感じられた。

 今、その背中を思い出す度に、「私の苦悩は同時に父の苦悩でもあったのだ」と理解することが出来る。
 私達の結婚は大学卒業後間もない事もあって、主人の父からは賛成してもらえなかった。 それを知った私の父は、主人の家に出向き、畳に額をこすりつけて「何卒二人を結婚させてやってください」と頼んだそうだ。それを見た母は、「お父さんが他人(ひと)に土下座した姿を見たのはあれが初めてだった」と後で私に話してくれた。
 父のように厳しい親にはなるまいと思っていた私だったが、いざ結婚をし、長女が生まれると知らず知らず子供に厳しくしていた。そう言えば、父の父、祖父も父に厳格だったと聞いている。良いものは子孫に残し、悪いものは私の代で断ち切っていかなければと思った。また父の厳しさがあったからこそ非行に走ることもなかったのだと感謝の気持ちにもなった。
 良い方向にと努力する中、父に対する態度も変った。それまではスーパーで父を見かけても素知らぬふりをして素通りしていた私も、父の姿を見ると車から降りて話しかけるようになった。そんな中、「今年は免許証の書き換えの年だから忘れずに更新に行けな」等と言って、結婚した後もどこどこまでも娘の事を気にかけてくれる父だった。

 父はまた孫である4人の子供達に、学費がかかるだろうからと、金銭的な援助もしてくれた。

 84歳で他界した父だったが、亡くなる数か月前より、よく口癖のように私の子供達の事を「よく4人共ちゃんと育てたな~」と褒めてくれた。生前めったに私を褒めてくれた事等ない父だったが、私に残された唯一かつ最大の褒め言葉だったな~と思い出す。

 子育てで少しなりとも親孝行や恩返しができた事が嬉しかった。
 吉田松陰の辞世の句に、「親思う、心に勝る親心」という歌があるが、子供が親を思うよりも親が子を思う慈愛の方がずっと深いものであることに改めて気付かせられる・・・。





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