4月30日(土)
<ワンコの存在、コップの水>
大震災から1ヵ月半が過ぎた。停電が続いた何日間は保温が出来ず困難な時期があったが、私のところは少難で済んだほうかもしれない。現在は震災前と同じ状況で通常通りの生活が出来ている。ワンコ達の新聞を取り替えていると、ふと目にした震災の死亡欄に知っている元ブリーダーさんの名前が載っていた。津波で飲まれた地域に住んでいたのだ。昔譲ったヨーキーを火事で亡くして平気でいる等、生前あまり良い印象を持ってはいなかったが、亡くなってしまうとその思いも薄められてしまう。
震災時「戦友」だった極小のチビヨーキーは、今は新しいオーナーさんに譲渡の運びになり関西で幸せに過ごしている。が、譲渡前、震災後の不安な時期にチビ君が居てくれたことでどれだけ主人と私の慰め、励みになっただろうか。生まれながらに極小だったため3時間おきの哺乳から始めてほとんど人の手で育てられた。哺乳はミルクではなく母犬のおっぱいにつけるのだが、飲み終われば踏み潰されるのを防ぐため母犬から離し、小さく囲った保育設備で育てた。ところがこのチビちゃん、生命力がたいそう旺盛で、吸いつきがよく多少の困難をものともせず小さくともたくましく育ってくれたのだ。生後2ヶ月過ぎに震災で暖房不可になった時もフリースのみで生き延びた。ケージに入れればいつまでも大人しく入っており、リビングに出してあげればあげたで自分で遊び始め、おしっこやうんちがしたくなれば必ず新聞紙のところに行って用を足すのである。リビングに出してあげるとまず新聞紙のところに行って用を足してからおもむろに遊び始める。特別教えたわけでもないのに自分でそう決めているようだ。こちらにいた間ほとんどお漏らしをしたことがない優れワンコだった。そして性格がとても素直でひょうきんだった。紐などにじゃれて一人遊びが得意だったが私や主人と目と目が合うと構えて狙いを定めダッシュして来る。その様子はまるで子猫のようだ。可愛いいったらありゃしない!余震が続く不安な中どれほどこのチビちゃんに笑わせてもらい和ませてもらったか。それはまるで荒涼たる砂漠の中の唯一のオアシスだった。譲渡後しばらくして掃除のときにふと新聞紙の切れ端に乗っているチビちゃんのウンチを見つけた。かりんとうのような立派な黒いウンチだった。見つけた瞬間懐かしさと感動で胸が一杯になった。「ここにもちゃんとウンチをしてくれていたんだね」チビちゃんが残してくれた思いがけない置き土産に、再び穏やかな空間と笑いを主人と共に分かち合った。
避難所生活を余儀なくされている人が飼っていたワンちゃんと別れを強いられている辛い場面を幾度となく報道で見た。どれほど苦しい思いで愛犬を手放すのだろうと想像すると思わず涙が溢れ出た。その人にとってワンコはかけがえのない心の支えになっているのだ。当方からお譲りしたワンちゃんで、津波の被害に遭い1階が浸水し2階で生活しており、しかも職場が流されたので仕事もなくなり生活に困っているというお宅に、「生活が安定するまで当方でワンちゃんを引き取って預かりしましょうか」、と申し出ると「いえ、結構です。かえってこの子が居たほうが明るく毎日を過ごせるし、物事前向きに希望を持って進めるので・・。」とのこと。改めてワンコが人に与える存在の大きさ、尊さ、素晴らしさを思い知った。
ここに濁った水が沈殿しているコップがあるとする。濁った水はそのままではいつまでたっても濁ったままだ。だが、綺麗な水を1滴、また1滴と注いでいくうちについには濁った水がなくなり、コップの水は綺麗な水で満たされる。辛い苦しい場面に遭遇したときいつもこの例えを思い出す。汚れた水はどうあがいても元には戻せない。だが、良きもの、明るいもの、善なるもの等プラスのものを積み重ねていくうちにいずれはマイナスのものは薄められて消えていく。震災で失ったものは数多く、決して忘れ去ることは出来ないかもしれない。だがいつまでも同じ場所にとどまっていては進めない。勇気や希望、信じる心など良きものを重ね重ねて前進していってほしい。ひいてはそれが失われたものへの弔いになるだろう。
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