アマンダおばさんの
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1月13日(土)

<明けましておめでとうございます>

 新年明けましておめでとうございます。といって1月ももう半ば、なんだかんだと用事が重なりご挨拶が遅れてしまいました。昨年中皆様方にはたいへんお世話になり衷心から厚く御礼を申し上げます。昨年1年を何とか過ごすことができましたのもひとえに皆様の暖かいお心の賜物と感謝申し上げます。可愛いわんちゃんの映像が載った年賀状をしたためてくださった皆様、有難うございました・・・嬉し楽しで1枚1枚微笑ましく拝見させていただきました。
 昨年12月には新たにワンコ服&グッズのショップ「PASSAGE  AMBROSIA パッサージュ アンブロージア」をOPEN させていただきました。ご愛犬とのより素敵なライフスタイルに少しなりともお手伝いできればとスタッフ一同張り切っております。今年1年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
 年末から年始にかけ、仕事に卒論にと超ハードな日々を過ごしていた子供たち4人だったが、この日だけはと三々五々県外から帰ってきてくれた。年末は夜6時くらいから実家に集まり鍋やお鮨、カニ、お雑煮、あんこ餅、ゴマ餅、胡桃餅、ずんだ餅(仙台名産:枝豆をつぶしてお砂糖を加えた餅)、そして年明けと共に年越しソバを全員で食するのが我が家の慣わしだったが、父が亡くなった今も引き続き齢84の母を中心に、今年は長男も嫁さんもそして長女の婿殿も運よく当直(病院)がなく、長女、3歳の孫、次男、三男と一家全員が顔を揃え同じように団欒をしながら大晦日〜元旦を過ごすことができた。子供たちが生まれてから育つ過程でよく預かってくれたり、学校に入れば次々と迎える受験に一緒に一喜一憂して悲しみも喜びも共有してくれた母は耳が遠く子供達や私たちの会話にはついていけない様子、だが皆が一同に揃って顔を見せてくれたことが何より一番の喜びだったようだ。母の喜ぶ姿を見て私も嬉しかった。母を加えた会食はこの先何回できるのであろうか・・と思うとさびしさが募る。
 年末にワンコの世話をしていてステップを踏み外して足を捻挫してしまった。急いでいたのと油断が相まって歩けなくなってしまった。それを見て皆が寄ってたかって、心配してくれる。やれ湿布だ固定剤だ、包帯だと・・・みるみるうちに大病人に仕上がってしまった。骨折したわけでもないのに、大袈裟な・・・と思いつつ何か嬉しかった。  自立とはただ単に親元から離れることを意味するのではない。離れて親を思い感謝し恩を感じられる人間になって初めて自立したといえる。至らないだらけの「おやおやな」母親にも関わらず親孝行な子供達に成長してくれたことに改めて感謝した。
 三が日が明けるや否や子犬2頭が巣立って行った。1頭は雪降る青森へ。もう1頭は気温23度(当時)という沖縄へ。青森へ行った子犬は4頭兄弟だった。ナーサリー(保育室)に入っていくと嬉しそうにサークルの1面に走ってきて4頭が顔を並べる姿は実に愛らしい。輝く瞳でいっせいに私を見て尻尾を振っていた。55日目で母犬から完全に離すとしばらくは「ウオーン ウオーン」と母恋しさに泣いていたが何日かすると諦めるのだろう、兄弟同士で何とか生活するようになる。もうおっぱいはあてにできないのだ、離乳食を食べるしかない、と一大決心をするのかそれからは夫々が一段とたくましく成長していく。その中のたった一人の小さい女の子だったがお兄ちゃんたちと別れて一人旅立って行った。一方沖縄に行った子は月齢が経っていたがその分私との接触は長かった。文頭でも述べたように年末私はステップからねじれて着地し捻挫してしまった。その痛さといったらない。思わず悲鳴を上げて床に崩れ込んでしまった。母犬達が運動中で留守のナーサリーでの出来事だった。いつもは上から見る子犬達だったがひっくり返ったことによって同じ目線で見ることになった。大きな物音と不安極まりない嬌声にちび犬たちは隅に固まって怯えていた。だが目の前にいた沖縄行きの子犬は、お付き合いが長かった。不安な表情で「どうしたの?」とでも言うかのように首を右左にかしげ、ついでサークルの間から前足を出し「ねえねえ大丈夫?」とおいでおいでをする動作で私を呼ぶ仕草をしたのだった。状況がわかるのか、まるでサークルというバリアーがなければ飛んで行って助けてあげようとでもしているようだった。目の前の子犬の仕草を見て思わず涙が溢れ出た。足の痛さとこれまでの辛かったことが漠然と思い起こされ声をあげて泣いてしまった。ワンコの心の清らかさ神聖さは例えようがない。動物と人間との違いでよく動物を卑下する言葉が使われ昔は「犬畜生」などという暴言も存在したが、今や畜生なのは人間の方ではないかと思うほど事件が多発している。ワンコを飼ったことのない無知な御仁の言う言葉ではないだろうか。
 数日間主人が替わりにワン子達の世話をしてくれ、子供達に言われたように湿布して安静にしたお陰様で今はほとんど治っている。数ヶ月間共に友情?を育んだ子犬も無事沖縄のオーナー様のところに送ることが出来た。「幸せになってね。有難う。」と頭を撫でそうっとバリケーンに入れて・・・。
 話は変るが、子犬がお手元に届くまでの一番の功労者は・・・言わずもがな子犬の母犬である。母犬は出産予定日近くになると陣痛が来て痛いのだろう、長い時は数日間もの間がさがさと床をひっかき便も緩くなる。やがてはあはあと息使いが荒くなり痛さでぶるぶると震えてくる。私も陣痛のすごさは経験があるだけに容易に想像ができる。痛さのピークに達した頃多くは「キャーン」と言う悲鳴や怒責とともに子犬を出産する。そして何時間もの間最後の子犬を産み終わるまで陣痛に苦しむ。生んだ後もゆっくり休む暇などない。哺乳をしたりおしっこウンチを舐めたり・・・かくして子離れまでの約2ヶ月子犬のために精魂を使い尽くす。当犬舎では毎日母犬を3時間半ほど自由運動に出すが、子犬たちの居るナーサリーに帰ると用意している母犬用のご馳走を一気に食べる母ワンコも中にはいるがほとんどの親犬は、お腹がすいているだろうに自分の食べ物はあとまわしにして子犬たちにおっぱいをあげる。健気である。やがて目があき子犬たちは兄弟たちとじゃれるようになる。社会性の始まりだ。大きさに違いがあると、やる子やられる子が出てくる。「ウー、ウー」と首を左右に振って噛み付く子、噛まれて「ウイー、ウイー」と抵抗する子、いろいろだ。だがお母さん犬は一切子犬のジャレ事に関知しない。子犬の片方に向かい一方的に「あんたが悪いのよ」と叱ったり、「お兄ちゃんでしょ」などと理不尽な言葉で責めることはない。遠巻きに見ているだけだ。中には子犬同士だけではなく母犬の足を噛んだり、尻尾にじゃれたりする子犬もいる。だが一切されるがままだ。その日の感情で叱ったりなど決してしない。これが兄弟のいない一人っ子の場合母犬は自分が相手になって社会性を学ばせる。一見子犬いじめをしているようだがそうではない。子犬と対等に向き合って時に子犬を噛み、噛まれる痛さを子犬に教えるのだ。 離乳の時期になるとお母さん犬は自分の食べたものを吐き出して子犬に与える。母犬の具合が悪いのではないかと思うがそうではないのだ。子犬に「もうおっぱいは卒業だよ。これからはフードを食べないとちゃんと生きていけないんだよ。」と教えているのだ。子犬がおっぱいにすがると、歯が生えて痛いのか威嚇する親もいる、おっぱいとの決別を告げている。 やがて母犬が用意してくれたと吐しゃ物や人間が用意した離乳食が上手に食べられるようになると残酷なことに母犬とのお別れの日が近づいてくるのだ。子犬と離れしばらく泣く親犬もいるがしばらくするとまた普段どおりの生活に戻っていく・・・。(以上はご存知の方も居られるかと思いますが)
 当犬舎から子犬をお譲りさせていただきお世話をいただくオーナー様には、その子がどんなに母犬から大切に育まれ、母犬が身を削ってまで大事に大事に愛情をこめて育てられてきたかを改めてご理解いただき、子犬には是非是非仕合せな一生を過ごさせていただきたいものと切に願うものでございます。
 本年もワンコ共々どうぞ宜しくお願い申し上げます。


1月28日(月)

<Kさんとの思い出>

 ここ仙台は極寒の地域ではないがさすがに今頃の季節は寒いことこの上ない。犬舎はFFのファンヒーターとエアコンが24時間フル回転だ。
 1月になると思い出す一こまがある。7年くらい前だっただろうか。その2ヶ月前プードルブリーダーのK氏にレッド・プードルの交配をしてもらったがあいにく不妊だった。私はそのことを報告しようとKさんに電話をした。だが何度連絡を取ってもつながらない。きっと外出でもしたのだろうと翌日再度電話をした。それでもつながらない。これまでも何度か連絡が取れないことがあったがそれは状況から判断して(たぶん)電話料金未納のためだっただろう。今回もそうなのだろうか、それにしても何だかへんだ、と、知っているブリーダーさん何人かにそれとなく聞いてみた。すると他の人も同じように連絡が取れず「どうしたのだろう」と不思議に思っていたところだという。ちょっとした騒ぎになったあと近くに居てKさんと親しかったMさんが「見に行ってきます。」とお返事下さった。翌日「どうでした?」とお聞きすると何と、「アパートの中で瀕死の状態で居りました」とのこと、びっくりしてしまった。そして・・・急遽運ばれた病院で亡くなった、という訃報を聞いたのはその数日後だった。肺炎だったそうだ。一人住まいで多数いるワンコの側を離れることが出来なかったのだろう、あるいは多額の借金をしていたという噂がある中病院に行く費用が捻出できなかったのかも知れない。発見されたときはすでに手遅れ状態だった。  が、このお方こそ取りも直さず日本のレッド・アプリコットの礎を築いたといわれるカリスマプードルブリーダー、K氏なのである。
 当時日本でレッドのCHを取得することさえ難しい時代に日本のみならずアメリカに自分のレッドを飛ばしハンドラーに預けてAMCHを作ってしまった。プードルのレッド・アプリコットにかけるその情熱と知識は並大抵ではなかった。何しろアメリカのかなりの祖先までの血統と個体の特徴を空で言えるほどに頭にインプットされているのである。Kさんに一度電話するとまず最低2時間は受話器を下ろせない。延々と個体や系統、ブリーディングの仕方などについて「お講義」を聞かされるのであった。あまりとうとうと話が続くので、どの子がどうで、どんななのか途中で訳がわからなくなったりもしたが、今考えるとそれがどれほどの入手し難いお宝講義であったかをしみじみと思い出す。交配を何度か依頼し、何頭かKさんから子犬を譲り受けた。そのたびにその子に関する講釈と親・祖先のAMCHの写真が郵送で届くのであった。

Kさんとの出会いは、17年くらい前に遡る。当時特にヨーロッパを旅していて多数プードルに出会った私は、その中にいわゆるコンチネンタルなどのプードルクリップを施していないぼさぼさのカーリープードルを見た。中世の建物がそのまま残っている石畳の上をプードルを引き連れマントなんぞをひるがえしてさっそうと歩くパリジェンヌやベルジアン、ブリティッシュはいかにもかっこ良かった!当時その6、7年前からヨークシャテリアやシルバーのプードルをすでにブリーディングしてはいたが、これが「プードルを本格的に作ろう」と決心するきっかけになった。テディーベアーカットなるものはまだまだ発明?されていない時代のことである。中でも特にアプリコットという色に興味を持った。日本で少しレッドが生まれてはいたが奥にブラックが入っていたり・・・今一だった中、この人なら熱心に作っているよと紹介されたのがKさんだった。K氏というのははばかれる、Kさんといったほうが合っている。何故なら彼はいわゆる「おすぎとピー子」系の人間だったからだ。夕方からはそれ専門のお店をやっていて日中は熱狂的にプードルを研究、繁殖していた。最初に彼からパンパースの小ぶりな女の子を当時の平均の2倍額で譲り受けた。すでにカリサ直系のレッドは入手していたが、この子ををきっかけに何年かに渡るKさんとの交流が始まったのだ。  が、お付き合いしているうちに唯一の難点である他人の悪口を言う点が気になった。プードル関係者のほとんど全員の噂と悪口を聞かされたが、鈍感な私でもさすれば私の悪口も他で言っているのだろうと察することが出来た。彼の噂話(悪口)でおおごとになった人もいる。中には手にしたKさんのプードルを、顔をみるのも嫌だと全部手放した人もいたそうだ。 それでも何故か憎めない人で、「仙台の弟子は宮澤さんで、三重の弟子は〜で、静岡は〜で・・・。」と聞かされた時は何か嬉しかった。いつの間にかKさんの「弟子」になっていた(^-^)

アメリカに自分で作ったプードルを送り現地の有名ハンドラーに預けてAMCHを作り始めたKさんは、脇で見ているだけの私でもその経費で経済が逼迫していることがわかった。よほど困っていたのだろう、自らプードルを勧めることなど決してしない誇り高いKさんが亡くなる半年〜1年くらい前自ら作ったAMCHの直子を種牡として要らないかと電話してきた。それでなくとも当時プードルは人気があまりなく売れない時代で、一部の愛好者、主にブリーダーのみで売り買いしているだけだった。私自身塾を経営していたので何とかやりくりはできたが、ほとんど道楽と言って良いほどで、何頭もトリミングに出すのが経済的に辛いこともあった。小ぶりな子は、今はティーカッププードルという名称でアメリカではりっぱな市民権まで得ているが、当時は繁殖に向かないと言ってはほんの二束三文でお売りしたものだった。Kさんの電話は度々つながらなくなったし、長話をしている最中もドアーがどんどんと鳴り、「ちょっと待ってね」と受話器を置いたままKさんと家賃を取り立てに来たらしい家主との会話が聞こえてくるのであった。

可愛いカットが紹介されて以来、毛が落ちないためアレルギーでワンコの飼えないファミリーでも飼えること、昔サーカスで使われていた程賢く知能指数が高いので躾が入りやすいこと、小型犬の割りに体が丈夫で飼いやすいこと、色もブラック、ホワイト、シルバー、ブラウン、ブルー、レッド、アプリコット・・・と多彩に揃っていること等等からここ何年かプードルは一般家庭に人気犬種として浸透していったとそれに伴いにわかにプードルを繁殖する方々が一気に増えた。ビジネスとして捉えるのであればそれも有りなのかも知れない。だが、プードルの厳しい氷河期を身を削りながら過ごし、それでもプードルが好きでやってきたブリーダーこそまさしく本物のブリーダーだと言えはしないだろうか。昔から懇意にしていただいている先輩愛犬家ブリーダーの中には40年もの間続けている方もいる。尊敬以外の何物でもない。他の犬種にも、流行ろうが流行っていなかろうがその犬種だけが好きで続けているブリーダーがいる。私はそのようなブリーダーこそがブリーダーたる所以だと信じている。そうしたブリーダーは、流行っているから繁殖しようとか、あるいは失礼な言い方をすれば儲かるから繁殖しようと始めたブリーダーとは全く意を異にする。
 Kさんが亡くなって間もなくの数ヵ月後、テディーベアーカットが考案されプードルはそれまでになかった一大人気爆発のフィーバー時代を迎えたのだった。今Kさんのレッド・アプリコットプードルは「幻のニュー・スプリング デイ」といわれその偉業と共に高犬質の子孫をあとに続けている。
 亡くなって7年、いまだに「ガガガガー」というKさん独特の笑い声が思い出される。ここに改めてKさんのご冥福をお祈りすると共に天に向かって「有難うね・・・」と感謝と敬の意を表したい(合掌)。




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