1月11日(木)
<親の責任>
新年明けましておめでとうございます。本年もお引き立てのほどどうぞ宜しく御願い申し上げます。年明け早々今年もたくさんの方からお譲りさせていただいたご愛犬の画像入り年賀状を頂戴し、成長したワンちゃんの晴れ姿を嬉しく拝見させていただくことが出来ました。心より感謝申し上げます。
昨年は体調を崩したこともあり皆様にはたいへんご迷惑をおかけ致しました。深くお詫び申し上げます。
拙いダイアリーにも拘らず読んでいただいていた方々が居られたことを知るにつけ、新たな年に向かい仕切り直しをし、再びダイアリーを始めることを決心させていただきました。ワンコのこと、夫婦や子育てのこと、家族のこと、親のこと・・・その他のことを、わたくしの人生観と(乏しい?)経験で徒然なるままに書き連ね、ひいては何かのお役に立てれば幸いに存じます。受け取り方は多様にあるかと思いますが、どうぞ良きにお計らいくださいませ。意に則しない場合は笑い飛ばしてスキップするか、あるいは閲覧をご遠慮くだされば、と存じます。 以上、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
めでたい新年早々悲惨な事件が巷を騒然とさせている。東京都で起きた歯学部受験の浪人生バラバラ事件だ。日を追うごとにマスメディアによって家庭内事情が明るみにされている。昨年起きた医学部志望の医師家庭高校生の放火事件とよく比較される。その共通点はどちらも親の職業を継ぐことを余儀なくされていたということ、そのための熾烈な受験勉強中だったということであろう。一般に、いろいろな考えはあるかと思うが、以前に私が主宰していた塾の塾生の両親、また自分の子供たちを通し今まで接してきた親御さんの様子から鑑みて、どの親でも子供には自分達より以上の学歴を持たせたいと思うのが常であろうと思う。父親以上、あるいはせめて父親と同じ程度にはと・・・。母親というものは子供をご主人の学歴まで引き上げることが一種の使命のように感じている場合が往々にしてあるのではないだろうか。それが医師家庭、歯科医師家庭となると子供により以上の無言、あるいは有言のプレッシャーがかかってくるのは想像に難くない。
我が家の4人の子供たちもそれぞれに大学受験時代を通過してきた。推薦で大学に入学できた長女以外、3人の男の子達は全員浪人を経験している。従ってそのピリピリの度合いは容易に思い起こすことが出来る。が、家庭内暴力もなく比較的平和に受験時代を過ごしてこられたのはお陰様以外の何ものでもない。受験というのは先が見えない分、精神的にかなりきついハードルになる。同じ勉強をするのでもあと何年やれば合格、と結果がわかってやるのだったらどんなに楽だろうと思う。事件の歯学部志望の子は三浪目だったというが、二浪すれば人格が変わると言われる中かなりのストレス状態だったことは否めない。
しかし、例え受験勉強が厳しいものだとしても、根本的に学ぶことを面白いと感じるか、あるいは辛いと感じるかによって結果にかなりの開きが出てくるとは言えないだろうか?大方「勉強は辛いもの、苦しいもの」と思って暮らしてきた親に育てられた子供は「勉強は辛いもの」とインプットされる。だが、好奇心旺盛な親に知ることわかることは「おもしろい」と思って育てられた子供は、例え受験が未知数で80%は辛く厳しいものだったとしても、残りの20%は喜び楽しんで勉強に励むことができるのではないだろうか。
子供たちが小さいときから主人は子供と共に、あるいは子供をだしにして好奇心旺盛に共学(?)してきた。そこには苦しいというイメージはない。その過程で長男は生物が好きになった。教育テレビで深海の珍しい魚が泳いでいる様子を飽きることもなく見ていた。私などはそんなものどこが面白いのだろうかと思うのだが、彼にとっては興味深い対象になったのだ。彼は生物への関心から医療関係の仕事に携わるようになった。次男は絵を描くのが好きだった。100円の自由画帳を与えておくと延々とひたすら書いていた。その流れで建築会社の意匠設計部という職に就いた。三男は主人の数学好きの影響を諸に受けた。フラクタルの話に熱中している父親に一緒になって興味を持った。それにまつわる本も読みあさった。大学は統計数学を専攻した。年上の長女は小さいときから下の弟たちの面倒を見させられた。自ずと人の世話をするのが好きになり病気の人を助ける仕事につきたいと考えるようになった。今主婦をやりながら医療に携わる仕事に就いている。
人間楽しくなければ何事も成就しない。例え辛い作業でもその中に何%でも楽しい要素があれば続けられるのだ。
親が子供に与える影響は大きい。勉強だけではない、仕事も同様だ。父親が自分の仕事を楽しくやっているのが肌で感じられる家庭にニートや引きこもりの子は起こりにくい。仕事から帰って面白くない顔をしていたり職場の不満を家族にぶちまけたり八つ当たりする父親から仕事は楽しいもの、社会はおもしろいもの、人生は愉快だという印象は受けがたい。事件の例でも医者である父親が上機嫌で仕事から帰り、楽しそうに、例えばその日出会った患者さんとのエピソードを子供に話してあげていたならば、きっと暴力を振るって勉強を強制しないでも子供は父親を尊敬しあこがれて、自分の意志で勉学に励んだであろう。歯科医の次男も父親や母親からその職業がどんなに楽しく人助けになるかを感じとっていたならば、きっと今とは違っていたのではないだろうか。報道によれば二家庭に共通するところは家族のコミュニケーションや絆が希薄であることと推測されるが、それと同時にそれ以前の親の資質が関係するのかもしれない。「子供は天からの授かりもの。まっすぐ育て、いずれお役に立てる人間として社会にお返しするもの」と考えて育てているだろうか? あるいは育てさせていただいているだろうか・・・? 子供は自分の子であって自分の子ではないのだ。
我が家の子供たちは嵐のような受験期を通り過ぎ、それぞれ社会人として仕事に就き、あるいは学生として勉学に励んでいるが、あのときの反抗の影は今微塵も感じられない。皆、親を思うやさしい子に落ち着いている。事件の彼らも紆余曲折はあったとしてもこの時期が過ぎればあるいは親を思いまっとうな人間として生活していたかもしれないと思うととても残念でならない・・・。
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1月20日(土)
<母のお伴>
83歳になる母のために病院へ、アッシー君を勤める。車に乗った途端「悪いんだけど病院に行く前にちょっと市民センターに寄ってくれないかな〜」と言う。理由を聞くと「源氏物語」のお講義を受けているセンターに、前回マフラーを忘れてきたので取りに行って欲しいとのこと。「はいはい」と言いながら心の中で「またか〜?」と呆れ返ってしまう。行く先々で帽子や眼鏡、コートを忘れるのは序の口で、財布が不明になるのも随分聞かされた。つい先日も財布を持たないで何とデパートに行ってしまったらしい。行く時は無料の老人パスが使えるバスだったので着くまで気がつかなかったという。「え〜?それでどうしたの?」と聞くと何と全ての買い物をカードで済ませたとのこと。値の張る洋服などは私もカードを利用することがあるが、母はその日デパ地下の372円のおかずや128円のパンまでいちいちカードで買ったというのだから笑ってしまう。買う度ごとにサインするのは客及び店員ともたいへんではなかったかと呆れもした。母は以前から家に来ても何かかにか忘れて帰ったが、最近とみに物忘れが激しくなったようだ。
センターの玄関入り口でマフラーを手にした母を乗せ当初の目的地病院へと急ぐ。いつも行くのと反対方向から病院に行くことになったため道がわからなくなった。交差点近くで母に「ここを右?左?」と聞くと左というので左に曲がろうとすると突然「あ、違った右だった」と言う。「あーらら」と急ハンドルで右に切る。少し行って「ここをどっちに曲がるんだっけ?」と聞くとまたまた「右・・・いや左だった」とのたまう。「このー、後ろから追突されたらどうするんねん?」と思わずバックミラーを見る。(この前も信号停止中に後続車から追突されたばかりだというのに、トホホ・・・)つくづく母は右と左の区別がもう出来なくなっているんだなーと実感した。
ある本で、自分の連れ合いの将来の姿を知りたければ結婚式に出席する妻、あるいは夫の両親を始め、祖父母、祖祖父母、また叔父叔母など親戚の様子を観察すれば大方の未来図を予想できるといった話を読んだことがある。なるほど、と思う。親の辿った道を確実に子は進む。きっと母の年齢になったなら私も同じように物忘れが激しくなるのだろう。同じように右か左かがよくわからなくなるのだろうと想像した。すると不思議なことに不足心も責め心もスーッと消えてなくなった。優しい気持ちになり母をいとおしむ気持ちさえ湧いてきたのだ。
私が母の年齢になったらきっと娘も同じように理解してくれるだろうと期待して・・・。
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1月28日(日)
<ドラゴンの死>
数日前の朝犬舎の室内運動場を見るとシーズーのドラゴンが横たわっていた。ここ数年来よく見かける風景で、幾度となく「もしかして・・・」と思いつつ体を揺すっては、のそっと起き出し、ほっとして・・・の繰り返しだった。その日もいつものように揺さぶった。が、反応がなかった。体全体を触ってみるとまだぬくもりは多少あったが硬直は進んでいた。あるいは部屋の温度で暖かかったのかもしれない。いつかこの日が来ることを予測はしていたし覚悟も出来ていた。が、犬舎からまたひとつ命が消えたことに深い悲しみが辺りを支配した。
御年15歳、年齢からすれば天寿を全うしたということになるのだろうか。ドラゴンを購入したのは、それまではまっていたヨークシャテリアが犬質の良いものほどお産が難しく半数以上は帝王切開を余儀なくされていたためだった。当時は夜中まで営業している動物病院は当地になく、夜中の難産はそのまま親子共々の死亡にも繋がった。お産扱いの難易度からしてテリア系のブリーダーこそ大学級のブリーダーだと今でも思っている。プードルのブリーディングなどは小学級だ。
その点シーズーはお産が楽だった。少しは心配なくブリーディングが出来る犬種が欲しいと、息抜きにシーズーの女の子を何頭か入れた。お顔もさることながらその能天気な性格が気に入った。いつも尻尾ふりふりで上機嫌だった。ドラゴンはそのお婿さんとして2,3歳の時に迎え入れたのだ。男の子としてはやさしい性格で交配も能天気、その気になる時もあればならない時もあり、うまくいかないときは急遽他犬舎の種オスに交配を依頼するなど苦労したものだった。シーズーの女の子たちも数回お産をしただけで、その後は1頭で可愛がってくださる一般のご家庭にさしあげた。2年前に「こぶとり爺さん」になったドラゴンに摘出手術をしたがそれ以外は悠々自適の生活で、24時間冷暖房の整った室内運動場で自由にのんびりと余生を過ごさせてあげられたことが唯一良かったことかもしれない。晩年は老犬性白内障で目が見えなかったし、耳も聞こえているのかどうかわからない意識半濁状態ではあったが、私が近づくと尻尾を振って喜んでいるのがわかった。前日好物の鶏レバーや缶詰を嬉しそうに食べていた姿が最後となった。
亡くなった日はたまたまスタッフの休みの日だったが、今思うと最後の発見をスタッフではなく私にして欲しかったのかなーと受け取っている。
ダンボールに敷物を敷きお花を飾り好物を入れた。そっと蓋を閉じるとどーっと涙が溢れ出てきた。10数年間明るい気持ちにさせてくれてありがとう、笑わせてくれてありがとう。 ドラゴン、安らかに眠ってください。
また1頭お星様になって旅立っていった・・・。
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