アマンダおばさんの
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6月24日(火)

<子育て 無作為の作為>

 この度の岩手宮城内陸地震では皆様からご心配のメールやお電話を頂戴し、お心使いに衷心から感謝申し上げます。幸い当方は家屋やワンコの部屋の破損や物の落下はなく、またワンコ共々怪我もなく無事に済んでおりますのでどうぞご安心ください。被害に遭われた方々には1日も早い回復を心から願っております。
 地震があったためかその1週間前に秋葉原で起きた事件が少し薄らいでいる、とは言っても皆様もそうであるように私もかなりのショックを受けて未だに心癒えないでいる。事件が起きた前日土曜日の同時刻頃に三男が同じ秋葉原にパソコンのパーツを買いに行ったと知った時、万一1日遅く行って事件に遭遇していたら・・・と思うと被害者のご家族の立場に立ち怒りと涙が交錯した。被害者の皆さんにもそれぞれ大切な未来と人生があっただろうに・・・抹殺する権利は誰にもない・・・と。
 出来るだけ正確にこの事件の背景を把握するためにテレビのみならず新聞、そして実の弟の手記を読んだ。規制緩和から派生した派遣社員制度だが、その不確実な立場を自分に置き換えてみるとやはり情緒不安定にならざるを得ないだろうと想像する。派遣をされている人たちのインターヴューでの生の声も非人間的扱いを訴えていた。大企業の繁栄の底辺では悪条件で雇われた派遣社員の血の滲むような働きがあることも把握できた。社会の仕組みや制度については識者の判断に任せるとして私は同じ世代の子育てをしてきた親の立場からK容疑者の生い立ちを追っていきたいと思う。
 当初報道ではK容疑者の親は夫婦仲が悪く、父親は酒乱だと述べていたが、以下某週刊誌に投稿した弟の話を参考に進めてみる。その家にはアルコール類はなかったし、また夫婦仲は普通だったようだ。父親は弟やある時期K容疑者の家賃や生活費を援助してあげていたこともあったようで優しい面もあったのではないか。違和感を感じるとすれば母親の教育態度だろう。世の母親は時に父親以上にわが子の教育には熱心だ。せめて夫くらいまでは、いやそれ以上の学歴に到達して欲しいと願い、高学歴=子供の幸せと信じて疑わない。母親は同じ青森の名門高校出でありながら大学進学をあきらめざるを得なかった自分の生い立ちに子供だけは・・と発奮したに違いない。子供を自分たちより良く・・・と思うのは生物の進化の本能ともいえる所以だ。それは肯定して良いと思う。だが、問題は子育ての考え方、あるいは見方ではないだろうか。Kの母親は専業主婦だったようだが、仕事を持たない分子供を優秀に立派に育てることが専らの命題だったのだと思う。先生のウケを狙うため作文は母親の検閲を受け指示通りに書かされたし字をちょっとでも間違うと消しゴムで消すのではなく新しい原稿用紙に初めから書き直させられたという。成績が悪いとヒステリックに詰り体罰を加えることもあったという。食事は無言で食卓に就くことが多く、時に突然母親が長男に激昂し廊下に新聞紙を敷いてそこにご飯や味噌汁をばら撒いて食べさせたこともあるようだ。ここまで読んでも母親の度を越した教育熱の程がわかる。また食事をするときは楽しい食卓でなければいけないと思うのが、何もしゃべらないで食べることくらい息の詰まる、胃の痛くなる光景はないのではないだろうか。
 教育は子供が無事順調に進んでいけるようお膳立てすることではない。むしろ逆だ。小さいうちからできるだけ挫折を経験させ自分の思うように事は運ばないのだということを認識させるべきだと思う。失敗したときに親は遠巻きに暖かく見守ってやることが必要でむやみに手を貸してはいけない。自分の力で立ち上がるよう励ましの言葉かけはするが、立ち上がるのは子供自身であるべきだ。子供たちが小さい頃転ぶことは往々にしてある。そんなときの親の反応はどうであろう。1つには「あら、たいへん、とすぐさま近寄って助け起こす」親のタイプ、2つ目は「何ぼやぼやしているの?ちゃんと前向いて歩きなさい」と怒るタイプ、3つ目は傍に駆け寄り「痛かったね〜。転んじゃったんだねー」と子供の気持ちになって慰めてあげる、時には子供の言う言葉を繰り返すタイプ。「子供;血でちゃったよー。親:血出たんだね。」親に痛い気持ちがわかってもらえた子供はそれだけで満足し、やがて痛かったことも忘れて自分で立ち上がろうとする。挫折からの文字通り立ち直りだ。この光景が成長後の教育の原風景を呈しているといって過言ではないと思う。つまり子供の先に立って転ばぬように防衛するのが親の役目ではなく、困ったことが起きたとき傍で励ましながら子供が自らの意志で立ち上がる手助けをするのが親の役目なのだ。K容疑者の母親は子供の後ろで見守るのではなしに子供の前に立って失敗しないように子供の袴に足を突っ込みあれこれ指示を与えていた。世の中を生きていくためには強い意志と困難に耐える力そして失敗から学ぶ、否失敗しなければ得られない数々の学びが必要だ。それをわざわざ子供から遠ざけて純粋培養しようとしたところに問題があったのではないだろうか。
 昔はお腹の中に寄生虫がいるのが普通だった。今はほとんどいないと思う。だが、寄生虫がアトピーやアレルギー体質になるのを防いでいた、と言う説もあるように多少はばい菌を体内に宿していたほうが免疫が出来て丈夫になる。予防注射が良い例だ。弱毒化した菌やウィールスを体内にあえて埋め込むことによって再び訪れた菌やウィールスを防御する力を得る。いわゆる免疫というものだ。K容疑者の母親はいわば免疫なしの無抵抗力のまま世の中に子供を放り出してしまったのだ。
 Kに彼女が出来たとき「好き」と書いてあった年賀状を冷蔵庫に張ってさらし者にしたとの弟の証言がある。確かに受験と重なると母親にとって恋人や女友達は勉学にじゃまな存在に写るかも知れない。彼女に直談判して母親が別れさせたとの報道もある。だが、じゃまな存在か否かを判断するのは子供本人の問題ではないだろうか。我が子のYに彼女がいたことはうすうす知っていた、が私は、彼女は付き合っている友達のOne of themだと思っていた。だがそうではなかったようで、大学受験に失敗したとき彼は「やっぱり彼女がいると集中できない」と反省したようだ。他人から言われてしぶしぶ別れたのではない、自分で自覚して彼女と決別した彼のその後の1年間は成績面で目を見張る向上をみた。人から言われて別れたのであれば恨みが残りKの思考経路の大部分を占める「全て〜が悪い」という人のせいにする人生が待っていただろう。だが誰のせいでもない、全て自分が引き起こした責任は自分で賄わなければならないことを知った者はこれからも過去の失敗経験をもとに知恵をしぼって自分をコントロールするようになるだろう。全てマイナスもプラスも自分が経験しなければ心底生き方の仕組みを理解することは出来ない、また地に足の着いた生き方は到底出来ないのだ。そこでどれだけ親が長い目で子供を見てあげることが出来るか否かにかかっているといって過言ではない。確かに精神的ゆとりとともに経済的ゆとりも有る程度は必要になってくるかも知れない。だが、最短距離を狙うあまりに子供を死に追いやったり人を危めてしまう結果に終わるとすれば、短絡的に考えることがいかに危険を伴っている事かを子育ての親はいっとき頭をクールダウンして考えるべきではないだろうか。子供の勉学面に偏って期待を持った親は思うように行かないとまるでその子供が価値のないように扱ってしまう。以心伝心で親から評価されていないことがわかった子供はまるで自分に自信がなくなってしまうのだ。自分への誇りが消失してしまう。ある時期親は子供にとって絶対的な自己評価の対象だからだ。私自身も亡き父から「馬鹿だ、馬鹿だ」と言われ続けてきたのでいまだに自分に自信がない。
 それでは親はどうやって子育てをしたら良いのだろうか。それは一言で言えば、口で教育するのではなく、後姿を見せて感応教育をしていくことだと思う。親だって人間だ。時には失敗だってする。何も立派な姿のみを見せようとすることはない。失敗した時の立ち直る姿を見せる事だってりっぱな教育になる。親が、あるいは母親が子供にむける時間があったら自分にかけることだと思う。自分の感性に合ったものを探しそれに夢中になることだ。家事が得意な人は徹底的に家事を追及すれば良い。仕事をしている人はその分野について右に出るものはないくらいに集中する。有償の仕事でなければならない、と言うことはない。趣味を持っている人はその道でカリスマになるくらいに拘る。もちろん無償のボランティアだって素晴らしい。何事にも自分の感性に沿って一生懸命、そして忘れてならないことは楽しくやることだと思う。母親が何だか知らないけど楽しそうに熱中しているものがあってきらきら輝いている・・・としたら子供はきっと「僕も(私も)何かしなければ!」と思うことしかりだ。自分が苦労すると子供がつまづいたときも何らかのアドバイスが出来るようになる。また気持ちがわかる分、かける言葉も変わってくるだろう。そして何より良いことには、自分で夢中になっているものがあると子供の成績などそれほど気にならなくなるものだ。このゆとりこそが子供にとって息抜きになりひいては自分で将来について考えるようになる。自分がやりたいと思ったものは強烈だ。ではどうしたら夢が叶うのか。〜の専門学校や大学に入ればいい。そのためにはどこの高校に入ればいいか。ではそこに入るために今何をすべきなのか・・・人から言われるのではない自分で計画するようになるのだ。
親が生き生きと自分のやりたいことに熱中している様子を見て何だか人生って楽しそうだな、と感じた瞬間から子供も夢と希望を持って逞しく社会に向かっていくのではないだろうか。

 つまり子育ては、親の後姿を見せて育てる「無作為の作為」が一番の良策と言えはしないだろうか。
 
Kの母親は「私の育て方が間違っていたかもしれない。」と述べていたようだ。もちろん今回の犯罪は決して許すことは出来ないが、妻として母としてこれから家族に尽くすことを願って止まない。



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